こんにちは。立岡靴工房の立岡海人です。
突然ですが、自己紹介します。
少し長くなりますが(約8,000字、さらっと読んで5分くらい)良ければお付き合いください。
今日のBlog。自己紹介の目次
- 名前の由来
- 家族構成
- 仕事のこと
- 趣味
- 人生のピンチ
- 夢とか、目標とか
- 新型コロナウイルスの影響
自己紹介。1.名前の由来
改めて自分の事をまずは、名前の由来から。
自慢出来る程の達筆では到底ないんですが、結構自分の字が好きでして
時々で字の感じって変わるんですよね。落ち着いてきたなぁ、とか大変そうだなぁ、とか。
わたくし生まれも育ちも岡山県は岡山市の中心部。岡山城の殿様であった池田光政さまが自分の身の回りのものを揃えるために方々より集めた商人がつくったマチ、表町商店街で3代続く革靴屋の4代目として産まれました。
屋号が立岡商店。先祖代々、立岡の姓を名乗っていたという事になります。
ちなみに立岡という姓は、全国では3000人ほど。滋賀県に500人ほど住んでおるそうです。
これ、昭和20年代、戦後の頃だそうです。写真中央右端に
「旗と履物 立岡商店」
とあります。
これは戦前の表町商店街の地図をデータ化したものなんですが、(近所のおっちゃんが自慢気に持ってきた)
立岡国旗店とあります。昔は旗を売っていたんですね。
(黄色い丸が付いているのは、戦死者があったことを示しているそうです)
その他にも、古い資料はまだまだあるんですが立岡の歴史はこれくらいにして
名前の「海人」について少々。(かいと、と読むんですがほぼ一発では変換されません)
これは、沖縄の写真です。
本島へ戻るフェリーが出発した直後、みんなで海に飛び込んで見送る瞬間を当時14才くらいの私が写ルンですで撮影したところです。世代によっては懐かしかったり、知らなかったりすると思いますが、写ルンです。最近またちょっと流行ってるみたいですけど。
それで、立岡家はおじいさんおばあさんとシングルマザーと犬1匹の家庭だったんですが、お母さんが沖縄が好きで「海」に関係するような名前を付けたいと思ったから。と聞きました。
ちなみにお母さんの名前は「洋子」。洋々と育って欲しい。とおじいさんおばあさんは付けたそうですが、本人曰く「洋々と育ちすぎた」と言って笑っていました。
確かに。
(これも沖縄の写真。離島(伊是名島)の更に離島(屋那覇島)。
それはまあいいんですけど、沖縄では漁師のことを海人(うみんちゅう)と言いまして
これは良い!となったようです。「カイくん」と言う音も良かったみたいです。
ボツったみたいですが、もう一つの候補は「カムイ」くん。沖縄or北海道かと。キラキラネームかと。
そんなかんじです。
最近は「たっちゃん」or「たっつん」とか「カイトさん」と呼ばれる事が多いです。
2.家族構成
一緒に住んだり、住まなかったりしても家族と思うことがあります。
子どもの頃は、岡山の実家でお母さんとおじいさん、おばあさん、犬1匹。
一人っ子だったけど、兄や妹みたいな、幼なじみよりも少し近い友だちが何人か。
彼の名前はセト。瀬戸大橋が出来た年に産まれたから。シバとセッター犬のハーフで14年生きた。
中学生くらいでおばあさんが寝たきりになって、自宅介護が始まった。(まぁまぁ大変)
大学生の頃、京都の木造下宿アパートで一人暮らし。(←1年住んで、火事になって引越し)
2年目くらいで犬が老衰で死んだ。良い死に方だったけど、寂しかったな。
途中20歳くらいからは木造一軒家をシェアハウスみたいにして友だちと3〜5人暮らし。
(いつでも誰かが居間にいる。知らない人も出入りするような京都っぽい感じ)
この頃、兄のような幼なじみが事故死。生きてたら良かったのになぁ。と思います。
就職が決まった頃、当時の地方商店街というか小売業は急下降を続けていて、インターネット販売と郊外型のショッピングモールに完全に押されていて、靴屋も例外じゃなかった。
それでも就職を祝ってくれて、
頑張って来いよ。とおじいさんは言ってくれた。
介護と靴屋の景気が悪くて大変だったと思うけど。
仕事を始めて、当時の彼女と二人暮らし。RCマンションの住みやすさに感動したが、山が近くムカデが出る。(ある時ベルボトムを履いた瞬間、裾から出てきて足が腫れて病院に行った思い出など)
共同のアトリエ、LDK、寝室。で住みやすかったけど、途中で一軒家に引っ越し。
腰椎椎間板ヘルニアで働けなくなり仕事を辞めて、収入が減ったのでまた下宿アパート暮らし。
しばらくして、再びシェアハウス生活。学生の頃から一つ屋根の下で過ごした人たちは、今から思えば家族のような関係だったと思います。
岡山で寝たきりだったおばあさんの先が長くないとなった頃、何が起こるか分からないなら家族と一緒にいようと思って実家に戻っておじいさんおばあさんとお母さんの4人暮らし。いろいろ決断して、当時の彼女とは別れた。
家族のあり方って、どれもこれも当たり前なものはなくて、ひとつひとつが完全にオリジナル。
立岡家は商売人の家系だったので、基本いつも全員靴屋の仕事をしているから土日祝日はむしろ稼ぎ時。それでもよく遊んでくれた方だと思う事があります。
おじいさんは話が上手で、若い時は満州にいたこと、戦争でシベリアへ抑留されたこと、日本へ帰って苦労して仕事をみつけたこと、あるときおばあさんに出会って立岡家になったこと、いろんなことを夕食時には話してくれました。(そういえば、仕事の話は一切しなかったな)
おばあさんは立岡家の本家だったので戦争では苦労したものの、死ぬまで上品さを持ち続けた人。
寝たきりになって不自由したと思うけど、自宅介護で家族に囲まれて見送られて幸せだったんじゃないかな。ある夏の朝、眠るように息を引き取ったおばあさん。良い死に顔でした。
葬式が終わってしばらくした頃の夢の話。おばあさんは最期まで寝ていたベッドの上を羽が生えたようにぐるぐる飛んでまわっていました。(たぶん本当に飛び回っていたんだと思う)
あと、「お母さんにありがとうって言っておいてね」とも。
おばあさんを亡くしたお母さんは悲しみが深すぎて、近くにいるけど気が付かないんだって言ってた。そういうこともあるんだろうなぁ。と。
それからもおじいさんは強く生きた。おばあさんの事が大好きだったから辛かったと思うけど、靴屋をなんとか守らないといけない。という使命感とともに強く生きた。そんな感じがする。
ベリーダンサーの嫁と結婚が決まった時も、喜んでくれた。それで気が抜けちゃったのかなあ。段々元気がなくなって、ほろっと死んじゃった。丁度11月の商店街が街を上げてのワゴンセールをする直前。葬式の翌日からワゴンセールをやって、なんか大変だったけど商売人の死に様を見たって感じ。
商売人が、商売の足を引っ張る訳にはいかない!
という何かがあったのかもしれない。
それから、嫁のお父さんもほろっと死んだりしたので結婚が先延ばしになったんだけど
結婚するまでのしばらくは、お母さんと二人暮らし。結婚してからは、嫁と二人暮らし。
2年前に靴屋が火事になったのもあって、実家にお母さんと嫁と3人暮らし。
で、その後で実家を建て替えることになってお母さんは近所のマンションで一人暮らし。私は嫁と嫁のお母さんと嫁の実家で3人暮らし。+猫が2匹。猫は可愛い。
最近ようやく慣れてきて、写真を撮らせてくれるくらいには近づけるようになった。
そして、靴屋と自宅が新築されたので、またお母さんと、嫁と3人暮らしになった。子どもはまだいない。
まとめ。
家族みんな好き。
おまけに、ちょっと良い話。
火事の後、すぐ近くに仮店舗を出したんだけど閉める事になった頃にお母さんとイオンモールで食料品を買うことになりショッピングカートにトマト缶とかスパイスとかを入れていた時。
「今まではお互い仕事の関係ばかりだったけど、この瞬間はなんか家族っぽいな」
と何かじんわりくるものがありました。小さい子どもの時、以来だなぁと。
やっぱし一緒に仕事してると、売り上げが落ちると仲良くしにくくなったりするからね。
3.仕事のこと
今はこのようにオーダーメイドの靴屋の仕事をしていますが、なぜこの道に進んだのかというとやっぱり家族の仕事を見てきたから。というのが一番のような気がします。
腰椎椎間板ヘルニアで仕事をやめて、さぁ再就職しようという時に実家の靴屋をやろうと決めたのは、
「これは家族である自分にしか出来ない事だ」
と思ったからでした。他の仕事は、自分の他にいくらでも代わりがいると。
少なくとも、ずっと会社を守ってきたおじいさんが生きているうちは靴屋を廃業させるわけにはいかない。とも思いました。だから、おじいさんが死ぬ時まで頑張ってみようと。
で、おじいさんを見送った後。もう少しだけやってみたくなって今のオーダーメイド靴を専門にする業態に変わっていったということになります。
おじいさんが言っていた言葉で、ずっと心に残っている言葉があります。
「正直な商売をしなさい」
時代が変わり、人が代わっていっても、その時々で常に正直であれ。と。
適正なものを、適正な価格で、ごまかしたり、嘘を言ってはならない。
勝手に、家訓と思って生きています。
あと、ちょっとした職歴としては
→ もんじゃ焼き屋 調理補助、ホール接客業務
→ ホテルの宴会サービス
→ なんか、色んな事の調査
→ 太陽光パネル設置
→ ホテル厨房の深夜清掃
→ エクステリア関係土木作業
→ デパート催事の販売員
→ 建築設計デザイン事務所、図面製作、施行補助
→ 靴、カバン修理
→ 居酒屋、厨房、ホールどっちも
などを経て、今の靴屋です。
4.趣味のこと
まずは、ベリーダンサーの嫁と過ごす事。
あと、ディジュリドゥ演奏
幸せな事に、ベリーダンサーの嫁とディジュリドゥ演奏で共演することが夫婦の面白いことになっています。
最近はタイミングが合わずにワンステージまるっと共演というのは機会がないんですが、それでも同じ舞台の上で、表現者としては平等な立場でそれぞれのパフォーマンスをする。という共通体験を持てる事は貴重だと思います。
△-misumi-(ミスミ)
という名前で、ダンスとディジュリドゥとバイオリンとパーカッションのバンドで、たまにイベントで演奏しています。
(最近は、ちょっとしたホールで小芝居のような事もやるようになった。2017年2月撮影)
あとは、料理。カレーつくるのとかかなり好き。
スパイス系大好き。
一品つくって、良い感じに皿に盛れた時はドーパミン出る。
数品か同時に作って、いいタイミングで一緒に出せた瞬間は結構気持ちいい。
あと、ボルダリング。屋内専門。アウトドアに行くほどじゃない。
個人プレー系好き。というか、チームプレイ系が無理。上手く出来ない。
最近だと少し大人になったので、フットサルはじめました。
その他、ハマりやすく、すぐ飽きるので過ぎ去った趣味多数。
基本的には個人プレー系で早く動かないもの、ゼロから1をつくるのではなく1を1αにしたり1’にするのが好き。
5.人生のピンチ
なんか人と話す時に聞いてて面白い話ってなんだろう。と言う話をしていて
「それぞれが人生でピンチを乗り越えた方法って知りたくない?」
って話になりました。
なので、頑張って書いてみます。
借金と、火事と、歴史と仲間たち。
まだ事業継承する前で、丁度火事になる2015年春くらいの話なんですが、借金がなんやかんやで1,000万近くありました。
今は靴屋を建て替えるのに、当時よりも金額は多い借金がありますが、返す当てのある借金というか計画性のある借金です。
2年前の借金は、「もう少しだけ頑張ってみよう・・・!」という思いだけが先行して、計画性の無い借り入れなどを繰り返した結果でした。現実的にはどうやったら返済出来るのだろう。と半ば諦めかけながら、しかも目隠しをしたような状態で走り続けていたような気がします。
それでもオーダーメイドの靴が少しずつ軌道に乗ってきたところだったので、「何とか乗り越えられるかも・・・!」と思っていた矢先の火事でした。
この時、火事が大変でしたね。って話になるんですが
実は正直なところ、「これで借金が少し楽になるかも」と思うくらい資金繰りがキツい状況でした。
実際には楽になるどころかもっと大変になるんですが
目隠しをしたまま走っていたのが、火事で立ち止まった事により目隠しが取れたので
(というか、現実を直視せざるを得ない状況になった)
ある意味ピンチなんですがチャンスというか、今ならそう言える。って出来事でした。
返済に悩んでいた借金のことだけでなく、火災保険の話、土地問題、相続のこと、4代続く靴屋なので、4代分のいろいろな事が火事をきっかけに次々と出てきました。
去年の夏くらいですかね、一番キツかったのは。笑ってはいるんですが、まぁまぁ痩せました。
奉還町のKAMPで靴の展示会とディジュリドゥのLIVEでゲストに松本族が来た時の写真です。
今は順調に体重も戻ってきて、嫁にはこの頃くらい痩せてる方が良いと言われますけど
乗り越えられたのは靴屋が長年積み重ねてきた信頼と、少し残っていた資産があったことでした。
昔からのお客さんから
『頑張って!』と言われたり
商店街の仲間や、地元でもほとんど知らないような人からも応援をいただいたり
メディアの方が復帰の取り組みを取材をしてくれたり
銀行や支援機関の方もいろいろなサポートを考えてくれました。
あと、同世代の経営者仲間たちが皆キツい中でも頑張っている姿をみて、
「自分もやれるだけやってみよう・・・!」
と思えた事も、元気になったひとつでした。
ちょっと話それますが、この時に確信したことがいくつかあって
「音楽は人の傷ついた心を癒す事が出来る」
ってこと。
ピアニストの妹尾美穂さんが岡山でドラムサークルを主催していて、火事の後でまだ間もない頃に招待いただきました。
その時、音楽に触れながらだんだんと泣けてきて、なんか自分は結構キツかったんだなぁと、音楽で心が緩んできて始めて気付くくらい、張ってたんだなあ〜と思いまして、ダンスにも同じ事があると思うんですけど、そういう話です。
何の話だっけ。そうそう、キツい時に頑張れる元気を貰える同世代の仲間の話。
といっても、同世代だけに限らなくて
同じ方向に向かう仲間たちがいると、頑張れる
って話。
で、同じ方向に向かう仲間って、一番はベリーダンサーの嫁なんですよ。
価値観は少しずつ違うところはあるけど、何でも相談出来るパートナーが近くにいる事がとても幸運なことだし、ありがたいことです。
例えばどこかの勉強会に参加して、こんなこと教えてもらったよ。っていうことも嫁に全部フィードバックする。人に説明するってことが学習には良い効果があるらしい。
そんな感じです。
6.夢とか、目標とか
人生の目標。
■嫁といつまでも仲良くすること。
■おばあさんを見送ったおじいさんのように、嫁の最期を看取る。
■おじいさんが死んだように、良い感じで息を引き取る。
■そのためには、家族を大事に。自分のおかあさんと、嫁のお母さんしか今はいないから。
仕事について
■立岡靴工房で新しいブランドを立ち上げる
■ブランドができたら、展示会したい
■靴づくりの技術や知識を次の世代に繋げる準備を始める
■とりあえずYouTubeから。まずは目指せ10,000人
7.新型コロナウイルスの影響
さて、そんなこんなで2017年7月に靴屋がリスタートしたわけですが
2018年には中四国で大雨が降って、靴屋の被害はなかったけど全体的に皆んな落ち込んでしまったし
2019年には靴づくりが上手くいかなくなるトラブルに見舞われたり
2020年には皆さんご存知の新型コロナウイルス感染症が世界をすっぽり包み込んでしまいました。
靴業界も、最初は材料の供給がストップしたり、工場をクローズしたりと生産体制が不安定になってしまいました。
オーダーメイド靴の納品が大幅に遅れたり、時間がかかり過ぎてしまったことで注文をキャンセルさせてもらったりもしました。
そんな今までやっていた対面でのオーダー靴販売が完全に転機を迎えることになった中で、コツコツ育てていたYouTubeからパティーヌや染め替えの仕事をいただく機会が増えたり
オンラインショップで靴のメンテナンスや加工材料が売れるようになったり
いろんな補助金とか、給付金といったサポートをいただきながら、なんとか靴屋を続けさせてもらっています。
だけど、立岡靴工房は全然諦めてないです。
はっきし言って、靴メーカーも廃業するところが出てくると思います。
それでも、今のチームは全員で力を合わせて生き残ろう!と団結しています。
というか、コロナで全員の状況が大変だからこそ、一緒に商品開発を本気で始めました。
具体的には、新しいパティーヌパンプスの企画がスタートしています。
目標だった、展示会の計画をはじめました。
新しいサービスを紹介するプロモーションビデオをつくります。
YouTubeの登録者数が、もうすぐ2,000人になります。
そして、今までにないくらい多くの事業計画をつくっています。
新しい夢に向かって全力ダッシュする立岡靴工房をこれからも応援してください。
立岡靴工房は世界中の足元をゴキゲンにします。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
おまけ.占いではこんな感じです。
「魚座と射手座のアーティスト性」って記事に
『まぁまぁわかるわー』
(靴屋:射手座。ベリーダンサー:魚座。)
というか、「魚座と射手座のアーティスト性」を読んでもらえれば大体それです。
六星占術では土星人 (+) で、霊合星人(二面性があるってやつで、浅田真央と同じ)
惑星数智学的にはケートゥが・・・。ってもう良いですね。結構やっとんのかい!みたいな話で。
分かる人には大体分かったと思いますが、やっぱり占いはインドが一番すごいってことです。